藤原義孝についての備忘録

君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな

                                            『小倉百人一首』より

 あなたのためには惜しくもないと思っていたこの命ですが、思いが遂げられた今では長く続いて欲しいと思っていることですよ。

 

 この歌は、百人一首第50番として収められている歌である。ある人がみたら、純粋だと笑うだろうか。また、ある人が見たら愛が重いと嘲笑うだろうか。

 私は、私はこの歌を始めて見た高校生の時分から惹かれている。そして、それと同じくらいこの歌を詠んだ「藤原義孝」という人にも惹かれている。和歌に秀で、美貌にも優れ、また人望も厚かったこの男は、21歳という若さで、天然痘という疫病でなくなった。夭逝した人物が類い稀ない人物として描かれるのは歴史の常だが、この人については、どれも真であったと思ってしまう。

 さて、高校生の頃から彼が好きな私であるが、今年で21になる。また、世間では疫病が流行っている。彼がちょうど亡くなった時に似ている気がする。これを運命と言わずしてなんというのだろうか。彼について知らなければ、彼について書かねば、という気持ちがふつふつと湧いてきた。その気持ちに任せて、今筆をとっている。わざわざブログで書かなくてもいい気もするが、彼のことを忘れてはいけない気もするのだ。

 

 

 藤原義孝藤原伊尹という男の元に、天暦8年(954年)に生まれた。幼い時分から和歌に優れていたようで、幼い時に伊尹と共に歌会に参列している。その時、読まれた上の句に下の句をつけるという催しが行われた。上の句とは和歌の始めの「575」の部分で、下の句は残りの「77」の部分である。ある上の句について、一同が返答に窮していると、義孝がすっと素晴らしい下の句を詠んでみせたという話が残っている。先ほども述べたように、夭逝した人物にこの手の話題はつきものであるが。

 この出来事に父である伊尹は大いに喜び、方々に自慢して回ったらしい。自身も和歌に優れ、梨壺の五人をまとめ、『後撰和歌集』の編纂に大きく関わっていたから、その喜びもひとしおであったのだろう。それに当時は、権力争いが激しい時代でもあり、かつ和歌の優劣が出世に影響したという話もあるので、自分の子に類稀なる才能を持つ子ができたことは、一般の親として感じる嬉しさ以上のものがあったのかもしれない。

 

 藤原義孝という人物について、語る上でまた欠かせないのは、その信心深さだろう。仏教が一大宗教であったということを差し引いても、熱心な仏教徒であった。肉や魚の類は食べなかった。またフナの肉にフナの卵を和えた鱠を見て、母の肉に子どもが添えられていると感じ涙を流したという記録もある。ここまでくると優しいのだかどうか分からなくなるが、そういう人物であった。また、邸宅の世尊寺に帰る度に、極楽浄土があるという西に向かって拝礼をし、熱心に仏を信仰した。彼が亡くなった後も、周囲の人々はその姿が忘れられなかったのだろうか、『大鏡』において、死後友人たちの夢に現れ、無事に極楽に行けたことを嬉しそうに語ったと記録されている。彼の信心は当時の人々にとっても奇異に映るものであったろうだろう。また、そのような夢を見てくれる友人が多くいたことに、彼の人柄の良さも見て取れる。

 

 そんな清廉潔白を絵に描いたような彼であるが、歳がくれば恋をするもので、ある女性の元から帰る際の後朝の歌として詠んだのが冒頭の

君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな

                                            『小倉百人一首』より

 という歌である。恋が実るまでに募った自分の思いと、恋が叶ったことに対する喜びとが上手く詠み込まれた歌であると思う。もちろん、恋とはいかなる時もそのように純粋なものではないだろうし、そういう幼くも美しい心はいつか失うものである。彼がその心を晩年まで持ち続けていたかは分からない。しかし、21歳で亡くなるまでに失ってしまうものなのだろうか。失ってしまう人だったのだろうか。今となっては確かめのないことで、ただ確かなのは、私はこの歳になってもこの歌が好きであるということである。

 

 この歌が詠まれた後、義孝は結婚し、長男である行成が産まれる。藤原行成、というと日本史を履修した人は見覚えがあるかもしれない。書に優れ、小野道風藤原佐理とともに「三蹟」に数えられる人物である。父義孝が早世したために、外祖父の源保光の庇護を受けて育つ事になるのだが、その祖父の教育が彼の書家としての人生に影響を与えのだろうか。源保光は漢学に優れた教養人であり、彼の教育項目に「書」が入っていたことも想像に難くない。このように能書家として文字通り歴史に名を残すことになった行成だが、一方で和歌は不得手であったようで、貴族が教養として知っておくべき歌を知らず、周囲に呆れられたという話が『大鏡』に残っている。もしも、義孝が生きていれば、彼は能書家ではなく、良き歌人となっていたのだろうか。それもまた知る由はない。

 

 ともかく、長男が生まれ、おそらく幸せの絶頂であったであろう、天禄3年(972年)悲劇が起こる。父伊尹が急死した。49歳だった。藤原氏氏長者として絶大な権力を掴んだ、まさにその時だった。かつて権力争いをした藤原朝成の祟りだとか当時は噂されたらしい。また、派手好きで、豪奢な生活を送っていたから、糖尿病であったとも言われる。

 藤原伊尹は、清廉であった息子の義孝とは反対に、女好きで、その美貌を生かし派手に遊んでいたらしい。そんな伊尹であるが、奇しくも百人一首に義孝同様、死と恋について詠んだ歌が選出されている。

あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな

                         『小倉百人一首』より 

 お可哀想にと言ってくれ人も思いつかなくて、私はこのままむなしく死んでしまいそうですよ。貴女が言ってくれたらいいのにね。

 詞書には、言い寄っていた女性が、冷たくなり、会ってくれなくなったので詠んだ歌とある。この詞書を知らなくとも、どこかおちゃらけた雰囲気で自分の死について詠んでいる様子が見てとれる。義孝の歌の「死」が思いのこもった真摯な言葉であったのに対し、伊尹は垢抜けた大人の男の遊びといった雰囲気が漂う。義孝は本当に死にそうであるし、伊尹は飄々と生きながらえそうである。

 ここから見てとれるように、義孝と正反対の父であったが、義孝は伊尹の死をひどく悲しみ、一時は出家しようとも考えたようだ。どれだけ権力を得ようと、どれだけ女性の愛を受けようと、どれだけ豪華な生活を送ろうと、死は誰のもとにも訪れる。その事実が大きな現実を伴って彼のみにのしかかっていた。結局、長男行成の行く末を案じて、出世は思いとどまるのだが、父の死は彼の人生に暗い影を落とした。それはまた、和歌にも見える気がする。まず、父伊尹が亡くなった頃に詠んだ歌が以下のものである。

夕まぐれ木しげき庭を眺めつつ木の葉とともに落つる涙かな

                           『義孝集』より

 薄暗い夕闇の中で、庭を眺めてもの思いに耽っていると、木の葉とともに落ちる涙なのだなぁ。

 

 また、父が亡くなった後の春に詠んだ歌。

夢ならで夢なることを嘆きつつ春のはかなき物思ふかな

                           『義孝集』より  

 夢ではなくて現実であるのに、夢のように儚い春を嘆きつつ、物思いにふけっていることですよ。

 春を、藤原氏氏長者となり権力を掌握していたことの例えと見ると、どこか儚い世に対する厭世の感を感じる歌であるが、そのまま「春」と詠んでもどことなく悲しさを感じる。

 

 またある時には、次のように詠んだ。

春雨も年にしたがふ世の中にいまはふるよと思ふかなしな

                           『義孝集』より

 春雨も歳月の移ろいに従うこの世で、またそれが降る季節がやってきましたが、こうして父の死から年月を経ていくのだと思うと悲しいものです。

 

 彼の心の影を見抜いていたのだろうか、天延2年(974年)都で天然痘が流行した際に、義孝もまた罹患してしまった。そして、旧暦9月16日、午前中に亡くなった兄の後を追うように、彼もまた亡くなった。享年21。最期まで法華経を唱えていたという。

 

 

 今年、私は21になる。自分が昔から好きな人の享年を超えるということに若干の特別感と、若干の緊張がある。もちろん、当時の21と現代の21では意味合いが違う。藤原義孝には、妻子がいたし、社会的地位も、才能もあった。私にはまだ何もない。ここは私にとってはまだ通過点である。だが、この21という特別な年に、流行病が出てしまったことに、何かの意味を感じてしまう。それを思うと、私はやはり、藤原義孝という人物について、文章という形で祈りを捧げたくなるのである。