恋の始まりと終わりについての考察。
1.はじめに
去る年に、私は次のようなツイート*1をしたところ、割と反響を頂いた。
雑記:「好き」という感情のスタートには理由などなくて、後日語られる「好きな理由」は後付けに過ぎないと思われる。「好きなもの」は「好き」だから「好き」であって、それ以上でもそれ以下でもない。
— Тадзимян (@muritya0629) November 27, 2019
「『好き』という感情の始まりには根拠が存在しないが故に、『好き』という感情を忘れることは容易ではなく、時間の経過によってのみ終了させることができる。」と結論づけたのがこの一連のツイートである。当時の私にとってこの論は納得の行くものであり、少なくとも自分の中では「真」ということにしていた。
しかし、よく目を凝らして周りを見ると、かつて好きであった相手からすぐさま新しい相手に切り替えられる、もしくは失恋からすぐに立ち直るという例が多く見られた。これらの「乗り換えがすぐである」という点に着目したある知人が、これらのケースを「赤坂見附」*2と呼んでいたので、ここでも「昔の恋愛からすぐに切り替える」事例を「赤坂見附」と定義しておく。
さて、「赤坂見附」は先にあげた一連のツイート群の論とは、一見矛盾しているように見える。しかし、私の論を拡張させることによって、「赤坂見附」の事例を説明することができ、さらにそこから、「『好き』という感情の終わりは、理性が決めるのでも時間が決めるのでもなく、新しい『好き』の始まりが決める」ということが結論づけられる。大雑把に言えば、「新しい恋愛だけが昔の恋愛を忘れさせてくれる」というよく言われる言説にたどり着く。
それを少しずつ書いていこうと思う。
2.昨年のツイートの振り返り
「赤坂見附」の話に行く前に、従来の論を振り返ってみる。
一般的に恋愛における「好き」という感情は長期間持続する。2人の関係が良好である場合もさることながら、「失恋」というものを経た後にも継続しやすい。「失恋」にはいわゆる自然消滅という部類のものもあるが、大抵ははっきりと自分の好意が拒絶される形で行われる。そのような拒絶を前にしては、自分の感情も手放してしまうように思われるのだが、実際にそうやすやすと手放す人は少ない。「失恋」を引きずり続ける人は掃いて捨てるほどいるであろう。このように、困難な状況であっても「好き」という感情を終わらせることはできない。それは何故なのだろうか。
ここで、「好き」になることに対する根拠はないと仮定してみる。つまりは、よく語られる「好きになった理由」(例えば相手の声が可愛いとか、性格が好きだとか)は、後付けであり、「好き」になったその瞬間に理由はなかったとしてみる。なんともメルヘンチックな仮定であるが、そうしてみると1つの説明が作れそうである。
何かそれに至る理由がはっきりとわかる場合、その理論を終わらせるためには、その理由に反論すればいい。例えば、「美味しそうだから」ぶどうを取りたいと思っていて、その「ぶどうを取りたい」という気持ちを終わらせたかったら、「あのぶどうは本当は酸っぱい」と反論すれば、わざわざ「ぶどうを取りたい」とは思わなくなるだろう。
しかし、理由がない場合、この方法を取ることはできない。そもそも反論する理由がないのだから。確かに"後付け"の理由ならある。だがそれを論破したところで、根幹を揺るがすことはできない。それゆえに、どうもがいたところで、「好き」という感情を終了させることは人為的にはかなり難しい。よって、「好き」という感情は、様々な手段、状況を前にしても継続してしまう。としたのが、昨年のツイートである。
3.「赤坂見附」についての考察
しかし、冒頭で述べたように、すぐに古い恋愛から切り替えられる人は世の中に多い。それを、ひとまず「赤坂見附」という言葉で定義して考えてみる。また、このような恋愛が悪いという話をしたい訳でもないことは断っておく。
先ほど結論づけた話と見比べてみると、この「赤坂見附」という事象は矛盾しているように思える。先ほどは、大雑把に言えば「恋愛は引きずるもの」としたのに対し、これらの事象は「引きずらずに新しい恋愛が始まっている」。
この「赤坂見附」をよく見てみると、「新しい恋愛が始まっている」というところに特徴があるように思える。この点を踏まえて、先ほどの論を拡張させてみると次のようにできるだろう。「『好き』という感情の始まりには根拠が存在しないが故に、『好き』という感情を理性によって忘れることは容易ではないが、新しい「好き」によって終了させることができる。」
こうすれば、去年のツイートと「赤坂見附」の事象を包摂することができるのではないだろうか。この2つの事象は一見矛盾したようであったが、近しい事象、もっと言えば表裏一体の事象であったのではないだろうか。
「好き」という感情は新しい「好き」が発生するまで継続することになる。裏を返せば、誰かと恋仲になっている時でも、痛烈な失恋を経験した直後であっても、偶発的に新しい「好き」が始まってしまうと、今までの「好き」が終わるということもあると言える。
さらに言えば、この「赤坂見附」を論に組み込むことで、「時間の経過によってのみ終了させることができる。」というところから時間の条件が抜けて、「新しい「好き」によって終了させることができる。」となったことにより、失恋に対する1つの処方箋のようなものが見えてくる。結果としては、広く一般に言われることであるが、「失恋した後は新しい恋を探すのが良い」ということになるのであろう。
4.まとめ
去年のツイートで述べた論に、相反するような事象として、「『好き』という感情をすぐに終わらせて、新しい『好き』を始める」ものが見られたので、これを「赤坂見附」と定義して考察を行ってきた。結果として、この2つは相反するものではなく、むしろツイートの論に「赤坂見附」を組み込むことによって、より解像度の高い命題を得ることができた。そして、この命題に従うことで、広く一般に言われることではあるが、「失恋した後は新しい恋を探すのが良い」という1つの方法を出すことができた。
しかし、この方法は実用に足りうるものなのであろうか。上記の方法を実行するには、「新しい『好き』を始める」必要があるが、「好き」を始められるかどうかは全くもって偶発的なものである。何か特定の理由があるわけではなく、「好きであるから好き」というのが「好き」の始まりだからである。対処法として、「時間の経過に任せる」から変わったものの、結局は「偶発的な事象に任せる」に変わっただけではないのだろうか。つまり、失恋した者の身としては、かつての「好き」という感情が一生涯続く気もするし、明日すぐに終わる気もするということであろうか。これが、去年に出した結論よりも、希望的なものか絶望的なものか、私にはまだ分からない。