批判と介錯

 先日、技術的な批判ならなんでも言っていいのかという話がネットで紛糾していたので、常々思うことを。

 

 人間誰しも、批判されるのは嫌である。ごくまれに批判でも何でもドンと来いという人がいるが、あれは本当に類まれなる精神を持つ人か、から元気を出しているだけの人である。大抵の人は批判されるのが嫌である。

 しかし、批判され、アドバイスを受けて成長するということもあり、自分では見つけられなかったミスを第三者ならば見つけられるというのは往々にしてある。ということは、批判は嫌なものであるけれど、かといって絶滅させていいものではない。ここに批判の難しさがある。

 

 そんなの批判される側が我慢すればいいじゃないか、という声も聞こえてきそうだが、それではあまりにも味気ない。批判される側に何か一定の態度を求めるのであれば、批判する側にも何か一定の態度が求められるのが筋であるように思う。後者について、常々思うところがあるので、それを書く。

 

 

 何か失敗があってある人はその人を批判したいとする。そうした時、失敗をした人は批判されるのが嫌いである。感情に任せるがままに批判することは、そのような感情を余計に悪化させることになってしまう。ネガテイブな感情が悪化した人は、頭が真っ白になって何も聞こえなくなるか、逆に意固地になって耳を貸さないかのどちらかになる。イソップ童話の「北風と太陽」を見れば小学生でもわかる。北風は結局旅人の服を脱がせなかったように。批判が建設的なものでなくなる。こういったことを考慮しないで批判することはただの自己満足であり、何ら実用的な意味を持たないことになる。そうならないようにするためには、相手に精神的なダメージを大きく与えないようにしながら、批判することがお互いのために肝心肝要になる。

 

 

 ところで、切腹というものをするときに、介錯人というのがつく。人が切腹をした後に、刀をすっと落としその首を刎ねるのが介錯人の仕事である。切腹をした時点で死ぬのだから、介錯人など不要なように思えるのだけれど、介錯人をつけずに刀で自決した日本陸軍の軍人は数時間苦しみながら死んだということなので、介錯人が一撃で死に至らしめるのが、「名誉の切腹」には必要ということになる。というわけなので、介錯人の仕事の大目的は「切腹人」を苦しませずに死なせることとなる。基本、介錯人は剣の達人であったが、中には下手な介錯人もいて、「切腹人」を絶命させるために何遍も何遍も切りつける人もいたらしいが、そういう人は末代までの笑いものとなったらしい。苦しませずに、「切腹人」の本懐を遂げさせる、それがあの時代の人々にとって重要なことであった。

 

 

 批判においてもこの介錯の精神が必要ではないか。本人の目的をよりよく達成できるように、「できるだけ苦しませずに」手助けをする。批判はもしかして現代における介錯ではないだろうか。批判する側の礼儀としてこの精神をわきまえるべきである。不要に苦しませることがあったならば、末代までの恥と心得る……流石にそれはやりすぎだとは思うけれど、「相手を苦しませずに」批判を行うことを配慮にいれるべきである。

 

 

 批判する相手であっても敬意を払う。思いやりを持つ。それは批判することにおいて、また重要であろう。ディベートみたいに恨みっこなしという場合は、相手と事前にそういう前提の共有があるのであって、そういうのがないSNSなどではなおさら敬意というものは必要であろう。

 

 批判される人に対しても「武士の情け」を、と思うのだが、これもまた古い考えなのだろうか。