絵仏師良秀の境地

※この作品はフィクションであり、現実の事件、事象を基に構成されていません。 

 

 宇治拾遺物語に「絵仏師良秀」という話がある。妻子とともに焼ける自宅を見て、下手であった炎の絵が上手く描けるようになると喜び、にやけ、笑っていたという男の話だ。芥川龍之介の『地獄変』の題材となった話であり、どこかでこの男の話を耳にした諸兄は多かろう。自分に降りかかった不幸でさえ、己の技術の向上に繋がると喜ぶ芸術家の恐ろしさ、凄まじさを伝える作品である。果たして本当にそのようなことがあるのか。人間である以上、そのような狂った考えは持たないのではないだろうか。初めてこの作品に触れた時から、つい先日に至るまでそのように考えていた。そう、つい先日までは。先日私は、その境地の一片に触れたような気がする。多く触れたわけではない。しかし、確かにその一欠片を見たのだ。

 

 先日、あるイベントがあった。イベントというよりは食事会に近いものであった。普通の人にとっては、ただの楽しい食事会。しかし、私はびくびくと怯えていた。参加者の欄の1番最後、そこに恋人であった人の名前が載っていた。数ヶ月前までは、暖かく自分を見てくれたあの目が、優しく包み込んでくれたあの態度が、冷たいものとなって、自分に向かってくるのが怖かった。

 食事会が始まった。彼女は遅れてきた。彼女が姿を現した刹那、自分の心臓が止まった。今まで、自分を襲ったことのないような、感情が体を蝕み始めた。この席に座っていることに後悔した。ただ、テーブルに並べられた色とりどりの食事を見つめていた。

 その時、ふと、心の隅からふつふつと湧くものがあった。それは声であった。「良い題材を得た。これを少しでも記憶し、文学に、作品にするべきだ。」と。はっ、と気がつくと、それまで体を侵食していたものは消えていた。その代わり、活力にも似た、大きく、しかしどこか暗い力が湧いてきていた。自然と口から笑みが零れる。ああ、これが絵仏師良秀の境地なのだ。今、その一片に触れているのだ。この裂けた胸から溢れる血をそのまま流してしまうのは勿体無い。血をインクに、骨をペンにし、作品を書いてやろう。そう思うと、この哀れな状況でさえ、魅力的な場面へと見えてきた。そう、きっとこのために私はこの席に座っていたのだ。そうとすら、思えてきていた。私は、まさしく良秀であった。

 

 これは、狂気的に倒錯した感情なのだろうか。耐えることのできない負荷に、作動してしまった防衛機制の末に、不が正になってしまったのだろうと、今となっては思える。ただ、確かに心の中に鬼がいて、私の心をたぶらかしていた。それだけは、確かである。今でもまた、あの記憶が不意に蘇り、あの声が聞こえるのだ。良秀の境地、それは文芸の1つのステップなのか。いや、そのような倒錯した感情を持ち、狂ってしまった自分は、さながら地獄をさまよう鬼であろう。そうなった以上、常人としては生きられまい。心臓から溢れる血を手に、紙へと向かう。狂気の赴くままに筆を振るう。ここは生き地獄である。