君はロックなんか聞かない

例のごとく流行に遅れて曲を聴く人間なので、今になってあいみょんという人の曲を聴いている。CMやドラマとのタイアップなしに出てきた歌手ということで、めっちゃ歌が上手い。私は逆張りオタクであったけれど、これは普通に推せるなと思った次第である。

 

さて、彼女の曲で1番気に入ってるのは「君はロックを聴かない」という曲である。


あいみょん - 君はロックを聴かない 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

落ち込んでいる意中の女性に、ロックを歌ってあげるが、あまりよろしい反応がもらえないというなんとも甘酸っぱい曲である。今日はこれについて思うところがあるので、ちょろちょろと書いて行こうと思う。

青春、特にその中の恋愛というものは、時によっては鬱屈とする気持ちを運んでくるもので、青春の真っ只中にいる者はそれをどう発散させるかに苦慮するものかと思う。全員が全員そうではないと思うが、おそらく多くの人がそういう状況に置かれるだろう。では、その鬱屈をどう受け流すか。いろいろな方法があると思うが、その中で「芸術への昇華」という方法をとる人たちがいる。それが、この曲中でロックを披露している青年であり、そして私もそうであろう。相手に対して抱く、自分の中の鬱屈とした感情を芸術に仕立て上げる。そうして生み出された芸術が完全に昇華されるのは、その相手の元まで届いた時であろう。別の曲の歌詞になってしまって恐縮だが、ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」に次の一節がある。

詩人がたったひとひらの言の葉に込めた 意味をついに知ることはない そう それは友に できるならあなたに届けばいいと思う』


ポルノグラフィティ「アゲハ蝶」RockinJapanfestival

(「アゲハ蝶」は恋愛の鬱屈した感情をうまいこと言語化できていると思うので全人類聴いて)

 

同情してくれる友人に届くだけでも昇華は達成できるけれども、やはり「あなた」に届くのが本望なのだ。しかしそこで問題がある。昇華において、自分と相手との間を媒介するものは「芸術(一般的な定義より広い)」である。どうしてもその仲介が必要になる。つまり、相手にその「芸術」を受け取ってもらわなければいけない。これが非常に難しい。人が受け取れる「芸術」のレンジはそれほど広くない。現に私だって、「私の感情を舞いに込めました」と言われたとしても、完璧に受け取れる自信はない。

では、相手に合わせて、間におく「芸術」を変えればいいのではないかということになる。しかし、青春の只中にいる人間にそんな器用なことができるのだろうか。そういう人の大部分は、何か一本だけで勝負している人ではないだろうか。「君はロックを聴かない」の青年にとってそれは「ロック」であり、私にとってはそれは短歌をはじめとした「文芸」だ。それでしか昇華をすることはできない。

であるから、自分の「伝家の宝刀」が相手のレンジに入らないのであれば、「相手の元に届ける」という大望を果たすことはできない。ロックを聴かない女性にロックを届けることはできないのだ。そうしてまた、新たな鬱屈が青年を襲う。無限地獄であるようにも思える。

 

今日もまた、あの青年はロックを歌うだろう。そして、私はまた文章を書き、短歌を詠む。それが、その意中の相手に届く日は果たしてくるのだろうか。