初めて『美女と野獣』を視聴した感想など

 金曜ロードショーでディズニー映画が放送された夜は、日本中でディズニーについてのあれこれが語られる夜だろう。そんな夜であるから、普段ディズニーに馴染みのない自分がそれについて書いてもバチは当たるまい。

 

 お恥ずかしながら、先述の通り私はディズニー映画に疎く、今晩放送された『美女と野獣』に至っては見たことがないどころかストーリーすら知らない。メインの曲についてもつい先月知ったばかりである。こんなこと書いてると、ディズニー好きの方々の手によって舞浜の海に沈められてしまいそうだが…

 一応言い訳させてもらうと、うちの一家はディズニーよりもジブリ映画を見る感じの家だった。家族で一緒に見る映画はいつもジブリであったと記憶している。『隣のトトロ』はテープが擦り切れるくらい見たし、かかりつけの小児科はいつも『魔女の宅急便』をテレビに映していた。(一応その小児科ではそれなりの頻度で『リトルマーメイド』も流していたけれど、ストーリー全体を把握できるほど視聴した記憶はない。)なんかこういうこと書いているとジブリ至上主義者に思われて、一部の人から「ランド引き回しの上、磔獄門にしてやる!」とか言われそうだが、別に対立煽りしたいわけではないので、ご了承を。ジブリにはトラウマ3部作*1とかあるしね… ちなみに、先日母とディズニーについて話したら、「子供が男の子だったから、あんまりディズニーとか見ないでしょ」とか言っていた。ミッキーのハンカチとかを使っている母なので、見たいと思ったこともあったろうに、とは思う。

 

 話が脇道に逸れたが、そんなこんなでこの歳まで『美女と野獣』を観ずに生きてきた訳である。そんな折に『美女と野獣』が金ローでやるということで、いい機会だと見ることにした。とはいえ、エ◯スコンバットをやっていたせいで、冒頭30分は見逃した訳であるけど。

 細かいストーリーについては端折る。多分、私以外は皆知っている古典だと思うので。

 冒頭をパーっと見ていると、政略結婚した夫婦はこんな感じだったのかぁとか思ってたり。困窮する家(父)を救うために、異民族に嫁ぐ娘とすると、割と世界各地でこういう雰囲気の話はありそう。例えば、漢の王昭君とか。王昭君の話は悲劇で書かれたりするけど、私は喜劇だと思います。自分を必要としてくれる人の許にいた方がいい。

 とかとかコムズカシイ話を考えていたのは冒頭くらいで、後のシーンは、精神年齢小学生マンとして、割とウキウキしながら視聴していた。ベルへの接し方が分からず右往左往するアダム可愛いなって思ったり、狼に襲われてるベルを助けにくるアダムかっこいいなと思ってたりしてました。あと、割と2人がお近づきになるテンポ早いなと思ったり。ベルが逃げ出すシーンから30分ぐらいで、踊りのシーンになってた気がする。まぁそれはそれで話がだれなくていいのかな。子供が飽きる前にシーン変わった方がいいと思うし。そんなこんなでホームアローンみのある戦闘シーンと大団円。まぁあれです、敵を解放するときにはちゃんと武装解除させようね!というお気持ちです。

 

 そして、最終シーンで全ての魔法が解けて大団円!ハッピーエンド!めでたしめでたし。まぁそこで終わればいいんですが、そのタイミングで、逆張りひねくれオタクの性が出てきてしまった。あれ、これ元の姿になる必要あるんだろうかと。この話は多分、もともと?心が醜かった人間が、姿までも醜くされ、コンプレックスを抱き、城に引きこもり、さらに心が荒んでいくというところが焦点なのだと思う。精神的にも完全でない人間が、外見にまでコンプレックスを抱いてしまうとどうなるか。自分でも書いてて胸が痛いが、そういうのが見てとれた。

 まぁ人生の悲しい話は置いといて、そうしたコンプレックスに悩むアダムはベルの優しさに触れ、愛を伝えて、受け入れられて、そう言った新しい経験、(本人は「今までにない気持ち」と表現していた)を通して、新しい感情を獲得していく。そして、アダムは人間の姿に戻っていくわけだけれども、これは戻る必要があるんだろうか… ベルは「野獣」の姿のアダムを愛してくれているわけだし、「野獣」の姿の方が腕力ありそうだし、体が大きすぎて天井に頭をぶつけるとかはあるかもだけど、ベルの力を借りて、姿の面でも気持ちの面でもコンプレックスを克服したアダムにとって「野獣」の姿であることはなんら問題がない。それが、魔女との契約であるからと言ってしまえば、それまでだけど。頭の中ではまぁ元の姿に戻るよなと思いながらも、若干の違和感があった。

 最後に元の姿に戻った理由として1つ考えられるのは、アダムが"元の"人間らしい感情、気持ちを回復させたからというもの。これは割と真に見える。「野獣」の姿のアダムは、すぐにカッとなり、物にあたり、まさしく「野獣」という感じであったけれども、ストーリーの中で、人間らしい感情をゲットしていく。そして、最後に完全に人間の気持ちを得たことの象徴として、人間の姿に戻る。

 この考えは割といい感じな気がするが、これも少し違和感がある。そもそもアダムの”元の”性格は冷たく傲慢な、とても良い性格と言えるものではないのではなかったか。彼にとって「人間の姿」=「人間時代」は、そういった人間的とはいえない性格を持っていた時分の象徴になるのではないだろうか。それに対して、「野獣の姿」は、ベルとの交流を通して新たな感情と気持ちを獲得した姿として、つまり新たな自分の姿として捉えることができるのではないだろうか。とするなら、今までの「自分の姿」と決別し、「新たな自分の姿」=「野獣の姿」を自分と認め生きていくという方法もこの話の結末として存在し得ると思う。

 

 

 ひねくれオタクとしてかなり穿った見方をしてしまったが、全然人の姿に戻るというのは話のオチとしては綺麗だし、まとまっているし、後者の結末も否定はしないし、そちらの方が支持されるだろう。私の気まぐれな意見は、部外者の戯言とでも思っていただければいいかなと思います。

 また気が向いたらディズニーついて書くかも。まぁそんなに夜更かししたくないので、ほどほどに…

*1:もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『千と千尋の神隠し』の3作品のこと。幼い私にとってシシガミ様、王蟲カオナシは恐怖の権化だった。ちなみに、中学生になった頃に3作品をちゃんと履修して克服した。